浄慶寺

柿生のあじさい寺

破顔一笑

様々な表情で
楽しませてくれます。

浄慶寺

麻生山 寿光院
浄慶寺
千株を超える花が咲き乱れる
柿生のあじさい寺

かながわ花の名所百選に指定

当寺の開創についてはいくつかの伝承があります。ひとつは寺伝です。当地の領主三井佐右衛門の父・寿光院は、天正十二年(1584)に徳川家康・織田信雄(のぶかつ)と豊臣秀吉が戦った小牧長久手の戦いに出陣、陣没しました。三井佐右衛門は父の霊を弔い、その武功を後世に伝える為に同じ年に当寺を開創したと伝えています。

当寺の過去の帳記録を見ますと、寿光院は元和元年(1615)十二月二十日に没しており、これは大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した年です。二つの説を整理しますと、寿光院は徳川家の武将として大坂夏の陣で没し、その七回忌に当たる元和七年(1621)に、父の追善供養の為、領主三井佐右衛門が当寺を創健したものといえます。

開山は証蓮社誠譽順阿長応上人です。山号は、地名に由来し、院号と寺号は「寿光院殿清譽浄慶大居士」にちなんでつけられました。自然環境に恵まれた柿生の里にふさわしい庵の面影を保つべく、二十三世瑞譽浄香代の昭和四十二年頃から紫陽花を植え始め、現在では千株を超える花が咲き乱れ「柿生のあじさい寺」の愛称で親しまれています。

羅漢様

境内にはユニークな羅漢様が数多く置かれ
桜、水仙、山吹、水芭蕉、紫陽花、彼岸花、萩、梅、ツワブキ、椿など
四季折々の花が咲き乱れております。

表情豊かな、羅漢様

江戸期には地頭より十五石を拝領したこともあり、明治中期まで檀家もなく、寺領からの年貢により護寺してきました。大正12年の関東大震災では本堂が半壊したあと、二十二世の真譽浄山代の昭和八年に再建。その後、明治以降の苦境の折々に、東京小石川傳通院から浄誘尼、浄山尼、浄香尼の三代の住職が止住し、寺門興隆に地道な努力を傾注した結果、現在に至っております。

さまざまな羅漢様を見る



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